氏家美紀
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小林布紀子
松下孝広
矢野智章
米村大子

立憲主義ってなぁに? From FPベンゴシ

皆さん、こんにちは!

 

札幌の FPを中心とした専門家ユニットなないろ福円隊

 

福円隊のこやし系担当、FPベンゴシです。

 

メンバーの梅澤さんは癒やし系らしいですが、

私は肥やし系です。


みなさんにいつも成長の糧、つまり肥やしを与えることを意識していますもの<(`^´)>エッヘン。臭いってことじゃないですよ。

 

まりりん達には、いやらし系の間違いでは?と思われているかもしれませんが・・・

さて、わたくしは、趣味らしいものはないのですが、唯一やめられないと思うのは、犬と戯れることですね。

暑い日差しの中、毎日、あんず(犬6歳)さんと散歩しています。平和です。

 

公園で枝を拾って「ホレっ!取ってこい!」と言って投げて、あんずさんに無視されたり、

 

あんずさんと散歩中にすれ違った中学生くらいの女の子ふたりが、

「ねえ、七福神いえる」

「一人しかわからない」

こんな会話していて、

「おぬし、なぜ七福神に興味がある?」って思ったり、

 

平和です。

 

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さて、今回は、ちょっと前の政治ネタを使って憲法と立憲主義について書きます。

政治ネタを利用するのは好きではないのですが、8月は平和について考える時期ですし、

今の時期、憲法とか権力について考えるのにいい時期かなって思いまして。

ちょっと前に福岡に出張しておりました。

『不確実性の霧に包まれ、

 何が正しくて何が間違っているのかが明確でない市場において、

 道標となるのは論理性しかない』

移動中の飛行機の中で読んだ本の一文です(田渕直也「デリバティブのプロが教える 金融基礎力養成講座」

 

この一文にあたったとき、礒崎陽輔首相補佐官の話題を思い出しました。

ちょうどそのときニュースがその話題で盛り上がっていたんですね。

「法的安定性は関係ない」っていう、あれです。

 

発言要旨は、このようです(東京新聞HP http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015072802000133.html

「何を考えないといけないか。法的安定性は関係ない。

(集団的自衛権行使が)わが国を守るために必要な措置かどうかを気にしないといけない。

 わが国を守るために必要なことを憲法が駄目だと言うことはあり得ない。

 『憲法解釈を変えるのはおかしい』と言われるが、

 時代が変わったのだから政府の解釈は必要に応じて変わる」

 

これについて、磯崎さんの国会での釈明は次のとおりです。

「法的安定性は関係ない」という発言をした理由について、

「決して法的安定性の全体を否定したのではなく、国際情勢の変化を強調したかったためにそうなった」

 

確かに、「何を考えないといけないのか」ということについて、答えの対比として使われており、

その意味で「わが国を守るために必要な措置かどうかを気にしないといけない」ということを強調する言葉として、

使われていると思います。

ただ、強調したことが、「法的安定性を否定していないこと」の証拠とはいえません。

法的安定性を否定することで、大切なのは「必要な措置かどうか」だと言っているともとれます。

ご本人が、どのような意図だったか、真実はわかりません。

ただ、安倍内閣で憲法解釈を変更したこととの文脈では、

「法的安定性なんて本当に関係ない」、と思っている可能性があると、

疑われてしまうことは避けられない発言だったと思います。

 

さて、改めて「法的安定性」とは何か。

法律用語辞典から見てみましょう(有斐閣)

『法の制定、改廃や、法の適用を安定的に行い、

 ある行為がどのような法的効果を生ずるかが予見可能な状態をいい、

 人々の法秩序に対する信頼を保護する原則とされる。

 朝令暮改や恣意的な裁判、また、主観的な法の解釈、運用は、この原則を害するものであり、

 避けなければならない』(恣意的=気ままで自分勝手な。この後もいっぱい出てきます♪)


日本には、1億人を超える多様な人々が住んでいます。

これらの人々が互いを尊重して、公平に扱われて生きていくためには、

ルールが必要あり、そのルールが共通言語によって互いに理解されていることが不可欠です。

 

特に権力が行使される場面において、

何が規制され、何をすると権力を行使されるのかが、あらかじめ明確になっていないと、

行動の自由が著しく害されます。

そのような場合の典型は刑法の適用の場面です。

何が処罰の対象になっているのかがあらかじめ明確になっていなければ、大変なことになります。

そこで、刑法では、罪刑法定主義という原則がとられ、

『処罰の対象となる行為(罪)とその罰が法律であらかじめ明確にされていること』が必要だとされています。

これは、法律で書かれているだけではなく、その意味が明確であることも必要だと考えられています。

 

このように、ルールの明確性はとっても大切なことです。

ルールがどのような意味であるのかについて解釈し、それをどのような場面に利用(適用)するのかについては、

恣意的になされたり、朝令暮改されては困るのです。

 

権力が、あるルールについて一定の解釈を示し、

それが長年続けられ、その状態が積み重ねられて来たとき、

人々はそのルールの意味について、権力が行った解釈を信用して行動するようになります。

ですから、あるとき、いきなり、その解釈を変えるということについては、きわめて慎重であるべきなのです。


安倍首相が率いる内閣の憲法解釈について、法的安定性というものについて顧慮されたのだろうか?

磯崎さんの発言は、『安倍内閣の権力を担うもの』としての姿勢について、

考えさせられる出来事でありました。

 

さて、磯崎さんについては、法的安定性に関するバッシング記事を見ている中で、このツイッター記事をみました。

これを見て、「ちょっと、この人は信用できない」

とかなり不安に思いました。

この文面だけ見ると、

磯崎さんは、「ウィキペディアで立憲主義という言葉を知った」

という感じです。

 

このつぶやきについて、

「磯崎さんは授業で寝ていたんだね」なんて評されていました。

(まあ皮肉でしょうが)

が、それは甘い評価だと思うのです。


なぜか。

 

磯崎さんは、東大法学部卒、自治省入省、自治大学校教授などを歴任され、

現在首相補佐官という権力の中枢にいる重職です。

 

その磯崎さんが「立憲主義を知らないはずない」って思うのです。

磯崎さんは、知っていて、わざとこんなつぶやきをしていると思うのです。

そこに国民の指導者たるべき政治家としての誠実性のなさを感じます。

というかあくどさを感じます。

 

磯崎さんが東大で憲法を学んだ頃は1980年頃だと思われます。

このツイートに出てくる芦部信喜氏は、

昭和から平成にかけての憲法学の権威であり、

昭和の前・中期の憲法学の権威宮沢俊義のお弟子さんでして、

法律を学んで知らない人はいない、という方です。

私くらいの世代も芦辺先生の教科書「憲法」で憲法を学んだ方が多いでしょう。

 

芦部信喜先生の憲法は初版が1992年ですが、
その第1章のタイトルが「憲法と立憲主義」です。

 

芦部先生が1983年に出版した論文集「憲法制定権力」にも『立憲主義』という言葉は使われていています。

 

そこには、こう書かれています。

「立憲主義(法の支配)の原則は、古典的な自然法の理論をはなれて独立に意味をもつ憲法の本質ともいうべきものであろう」(100頁)


 ちなみに、

芦部信喜先生の師匠宮沢俊義先生が昭和37年に出版している憲法[改定版]にも、

自由主義に立脚する国家の基礎法を立憲的意味の憲法という、と書かれています(13頁)。

 

磯崎さんが学んだであろう頃に、

芦部先生が憲法の「本質」である立憲主義に触れていないはずがないと思うのです。


ツイートでは、

「昔からある学説でしょうか」とか「いつからの学説でしょうか?」なんていっていますが、

うそぶいているとしかいいようがないと思います。


なぜ、そう言えるか。

「立憲主義」は、A説、B説とか解釈がわかれて学説が対立しているような概念ではありません。

そもそも、「立憲主義」の考え方でつくられていない憲法は、「憲法」という名称がついていても、

それはほんものの「憲法」ではないといわれるのです。

 

 

す、すみません(゜Д゜;) 

 

でも、読んでもらえませんか?

つづけますね。

たとえば、

オムレツの作り方の本に「憲法」という表題がついていても、それは「憲法」はありません。

「憲法」というのは、「憲法」というタイトルがついている文章であれば何でも「憲法」なのではないのです。

 

「憲法」という言葉は、非常に内容の特定された、言葉でして、

立憲主義というイデオロギー(=観念)に基づいて作られている国家の基本法が憲法なのです。

 

先の宮澤先生の憲法にも次のようにあります。

「多かれ少なかれ自由主義を原理とする基礎法を憲法と呼ぶ習慣が生じた。

 1989年のフランスの『人及び市民の権利の宣言』の16条が、

 『すべて権利の保障が確保されず、権力分立が定められていない社会は、憲法をもつということができない』というのは、

 かような憲法概念の典型的な表現である」(13頁)

 

また、昭和55年に第3版が出ている清宮四郎東北大名誉教授の憲法Ⅰにも次のようにあります。

「近代の憲法史において、立憲主義の政治思想をかなりの程度取り入れている憲法だけを憲法ということがある」(7頁)

これらは、磯崎さんが学んだ頃に既にある本の記述です。


つまり、立憲主義は、「憲法」と呼ばれる法規の実質的な内容の本質となる概念です。

 

だから、「憲法」を学ぶということは、「立憲主義を学ぶ」とイコールなのです

憲法を学ぶ授業において、

立憲主義否定説、立憲主義肯定説、日本国憲法はその折衷だね、とか、

憲法は立憲主義という考えを採っていないから授業で教えない、なんてことはないのです。

 

芦部信喜先生の憲法を示しましょう。

「憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治理念に基づいて制定された憲法であり、

 国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法である。

 そのような立憲的意味の憲法の特色を次に要説する」

東大で憲法を学んで、立憲主義を「そんな学説あるんですか?」的に思うはずがないと思うのです。

権力の中枢にいて、立憲主義を「そんな学説あるんですか?」的にしか知らないはずがないのです。

 

だから、先のツイートは、たんにうそぶいている、なんてものではなく、

政治家としてあくどいと思うのです。

ツイートを見る素人に、

立憲主義があたかも一つの学説であり、特定の学者が主張している概念にすぎない、

って思わせようとしているとしか思えないのです。

立憲主義という考え方を否定したり、修正したりする考え方を持つことは

いいでしょう。

しかし、現在の憲法が立憲主義に立脚していない、とか、

一つのの学説にすぎない的なことをいうのは、

控えめに言ってもちょっとひどい誤りです。

磯崎さんは、そのことを分かっていながら、

わざととぼけてツイートしているところが、

「この人信用できない」と思わせるところなのです。

 

この辺が、安倍首相、そして安倍さんの信任を受けている周辺の人物の、

国民に対する誠実性に疑問を抱かせるところではないでしょうか。

 

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さて、立憲主義について芦部信喜先生の本を見ておきましょう。

「近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とする」

さらに、テレビでもご存じかもしれません、芦部信喜先生のお弟子さんの長谷部恭男先生の記述も見てみましょう。


「憲法は、権力者の恣意を許すものではあってはならず、

 個人の権利と自由を保障するために、その限りにおいて国家の行為を認めるべきだという考え方が確立した。

 この近代立憲主義と呼ばれる思想は、国家の任務を個人の権利・自由の保障にあると考えるが、

 その任務を果たすために強大な権力を保持する国家自体からも権利と自由を守らねばならないとの立場をとり、

 このような目的に即して、国家機関の行動を厳格に制約しようとする」(憲法第6版10頁)

 

このように、立憲主義は、特定のイデオロギーでして、

そもそも、そのような考え方自体を否定する、ということはあって良いのです。

あとはそのような考えに賛同するかしないかです。

 

 ところで、

現在の日本国憲法は、人権保障、権力分立、法の支配などを定めており、

自由主義に基づいて、権力の抑制を図る制度を採っており、

アメリカ独立宣言、フランス人権宣言等、近代ヨーロッパに始まる近代立憲主義憲法の系譜にある

という点については、間違いがありません。

 

この近代立憲主義の系譜に連なっていること自体、日本に合わないなどの理由で、反対するのはいいでしょう。

それもひとつの立場です。

 

しかし、日本国憲法が、立憲主義というイデオロギーに基づいて作られていることは明らかでして、

「そうではない」と国民に発信するのは誠実ではないと思います。

 

立憲主義に否定的な考えであれば、

「立憲主義に立脚する日本国憲法はけしからん、だから改正する」と説明するのが誠実な対応であると思います。

「憲法はそもそも立憲主義を採っていないよ~、だから、立憲主義的に解釈しなくていいんだよ~」というは

議論の仕方としては不誠実です。

 

なお、「憲法」を改正して、立憲主義に基づかない内容にするときには、

もはや「憲法」と呼ぶべきではなくて、「国家基本法」とか呼ぶべきでしょう。

(立憲主義の内容をもつ規範を「憲法」と呼ぶからです)

 

また、それを改正と呼べるかも問題です。

憲法を否定して新たな憲法(らしきもの)をつくることを法的には「革命」と呼びます。

今の憲法が改正されて、立憲主義が否定されたら、それは改正ではなく革命でしょうね。



すみません(o_ _)o

もうちょっとなんで。もう少しお付き合いを。

 

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さて、

そもそも、なんで立憲主義ってイデオロギーが世界に広まり、日本でも採用されたのでしょうか。

再び、長谷部教授の本を見てみましょう。

 

「近代立憲主義及びそれを支える個人の自然権という思想は、

 宗教上の対立を典型とする根底的な価値観・世界観の対立が深刻な紛争を引き起こした16~17世紀のヨーロッパにおいて形成された。

 人々の抱く根本的な価値観の相違にもかかわらず、すべての人が社会生活の便宜とコストを公平に享受し負担する枠組みを作り出すことが、

 こうした思想の狙いである」(憲法・第6版11頁)


この「枠組み」が憲法です。

 

立憲主義って、

いろんな人、異なる考え、異なる宗教、異なる人種、異なる立場などいろんな人いることを前提に、

その人々が、公平に、同じ国の中で生活するためにはどうしたらいいか、

の枠組みを考えるときの土台となっている思想なのですね。

 

この思想が多数に受け入れられたから現在の日本国憲法があるのではないでしょうか。

(押しつけ憲法という議論を展開する方はそう思っていないかもしれません)


さて、憲法は、

個人の表現の自由を保障する、思想良心の自由を保障する、国家が特定の宗教を支援してはいけない

など個人の自由を保障しています。

 

不公平の最たるものは価値の押しつけでして、

その一番凶暴な方法は、権力を握った集団によって権力機構を使って恣意的になされることです。 

憲法は、個人の自由を保障するという方法によって、

ときどきの権力によって、特定の人々が不公平に扱われないようにして、

様々な人々が共同生活をできるようにするための方策を採っているんですね。

 

また、憲法は、権力の恣意的な行使を制限するために様々な方策を採っています。

改めて、「恣意的」とは、思いつくまま行うことです。

権力が思いつくまま行われないようにするためには、

予め、権力の行使の基準、手順を決めておくことです。

権力者(昔だと王様とか上様、現代では将軍様)が恣意的に権力を行使することを防ぐため、

予め決められた法によって権力を拘束する。

こうして、個人の自由・権利を守る。

これを「法の支配」っていったりします(逆に恣意的に権力行使がなされうる体制を「人の支配」といいます)

 

権力行使の根拠たる法律を国民の選んだ国会が制定する、ってのは、

まさにこの法の支配のひとつであり、立憲主義を示すものであります。

 

さて、その国会の構成員たる議員に、

国家の重要な法案に関連して、

「法的安定性は関係ない」とか言ったり、「立憲主義なんてしりません」なんて言う人がいる場合、

憲法における自己の役割を否定しているに等しいといえるでしょう。

自由を守りたい人は、こうした人に対して非常に警戒しないといけないように思うのです。



お盆明けの来週のブログは、夫婦コンシェルの佑夕子ねーさんです。

どうぞお楽しみに♪